道のりの長さを実感−忍耐力
‐前回の記事‐
第3話~忍耐力~
今日もひたすら大阪に向けて大通りを歩いていた。
すると目印の看板が出てきた。
お! えっと静岡まで、、135㎞??
「そんな距離歩けるか!ボケ!」
なんて言いながらも、とにかく歩いていた。
一日中歩いてても、本当にこれといって発見もない。大通りはひたすら真っすぐ歩く。何も考えずにロボットのように歩いていた。
だんだん2人の会話も尽き、お互い完全にロボットになった。初日に「2人でしりとりを始めたらもう終わりだな。会話の墓場だ。笑」なんて話していたが、そんなのはもうとっくに越えていた。気づけばみなと君はだいぶ前を歩いていた。
僕は一人で通り過ぎる車のナンバーを足し算したり引き算したりしていた。
車も通らない山道に入ると、本当にやることがない。
「何やってんだ俺。」って一万回は自問した。
野宿は3回もすれば当たり前になっていた。慣れてくると歩いてる最中に、「あ、ここ寝れるな。」って公園やベンチなどが快適な寝床に見えてくる。
困ったのは雨の日や山の中だ。雨の日はとにかく寝床を探すのに苦労する。晴れていれば何の問題もなく寝れる場所でも、雨だとそうは行かない。夕方から雨が降り始めるとほんとに萎えた。うまいこと屋根があって雨をしのげる場所を探さなきゃいけない。歩き疲れた足で寝床を探すのは気がめいった。川沿いの橋の下などは比較的落ち着いて眠れた。雨は防げるし都会にいる変なヤンキーも来ない。
山の中でも困った。東京から神奈川、そして静岡に入ると、信号もない山道が増えてきた。まる一日コンビニもスーパーも無い山の中を歩くことはよくあった。そうゆう時は山に入る前に買いだめをして朝一番で山に入って、なるべく暗くなる前に山を抜けるようにしていた。夜になると街頭も無いし車も通らないから何も見えない。それにイノシシやらサルやら、最悪の場合クマもうろうろしている。単純にそんな環境では落ち着いて眠れない。出来るだけそれは避けるようにしていた。
カンカン照りの暑さの中でも、前が見えないほどの雨の中でも、僕たちは毎日、とにかく歩いた。
そして静岡県に入ったころ、国道1号線沿いを歩いていた。そして気が付いた。この国道1号線は、なんと大阪駅の前まで繋がっているということを。
そしてこの道を東海道ということを。この東海道、旧東海道沿いを歩いていけば、京都の三条大橋まで行くことができる。そう、あの有名な東海道五十三次だ。浮世絵のやつです。僕はこの旅に出るまでその存在自体を知らなかった。(笑)
昔の人は実際にこの道を通って京都から東京まで歩いていたんだと思うと尊敬の念が沸いてきた。そして自分たちにも出来るという自身が沸いてきた。−続く
大阪に向けて出発−長い旅の始まり
‐前回の記事‐
第2話 ~出発~
出発の朝。近所のスーパーに集合して、コーヒーで一息。思いつく荷物、テントを担いだら、二人ともバックはなかなかの重さになった。とりあえず南に向かって海に出て、そこからはひたすら西だな!とざっくりした作戦会議を済ませ、
「よし!行くか」と近所に買い物に行くかのようなノリで歩き出した。
「とりあえず今日の目標は神奈川県に入ること。暗くなる前に何とか寝れそうな場所を探してテントを張ろう。」
さすがに初日、2人で色んな会話をしながら「これから大阪まで歩くんですよ!」なんて通りすがりの人に自慢するほどの元気もあった。特にこれといった発見もなく、楽しく会話しながら歩いていると、あっという間に30㎞を突破。そして神奈川県に突入した。このぐらいの距離は慣れている。足の疲れはそれほどない。
夕方になりそろそろこの旅最初の寝床探し。テントの張れる公園を探した。結構大きめの広場を見つけたので、そこに入っていった。しばらく休憩してみたが、人通りが多い。それもそのはず、そこは沢山のマンションの中心にある広場だった。マンションにお住いの方が全員ここを通って帰っていく。これは寝づらい。でももー気持ちは完全に寝るモード。「朝早くに出発するので一晩だけお邪魔します。」と隅っこにテントを張った。
明らかに怪しい。「どうか通報しないで下さい。」と祈りながら初日の夜は過ごした。
ちょっとビクビクしていたが、付かれていたのかぐっすり眠っていた。
翌朝、目が覚めると7時を過ぎていた。もうサラリーマンたちはここを通って不思議そうに僕たちのテントを見つめながら出勤していったことだろう。
お邪魔しました。テントをささっと片づけてまた歩き出した。 続く。
命をかけるということ
僕は基本的にすぐ命がけになってしまう。趣味で始めたことで命がけじゃないとすれば釣りぐらいなものだ。スキューバダイビングもスカイダイビングも登山も。一定のレベルを越えてくると常に死と隣り合わせになってしまう。なんでも極めるということはそうゆうことなのか。
あるサーファーの友達から聞いた話。オーストラリアでサーフィンをしていた時、サーフィンの神様と呼ばれる人がいた。その人は誰も乗らないようなとても大きい波、ビッグウェーブに乗る。もちろんそれは死と隣り合わせ。一歩間違えば死ぬこともあるだろう。他のサーファーは皆、意を決して硬い表情でその波に挑む中、彼はボードを待って砂浜に立って、まるで子供のようにキラッキラした笑顔で、「今日は死ぬには持って来いの日だなぁ」と幸せそうに言い残して海に入っていくそうだ。
この話を聞いた時、何かすごく大切なことを教わった気がした。
僕の尊敬していた登山家の栗城史多さんは、エベレストで命を落とした。わからないが、もし栗城さんもエベレストを目の前にして、今日は死ぬには持って来いの日だ。と思えたことを願う。栗木さんは冒険の共有を死ぬ瞬間まで続けてくれた。全ての人が挑んでいる自分の壁を登る力を与え続けてくれた。そこに命を懸けることに納得していたなら、受け入れられます。でももしそこに命を懸けたいと思っていなかったなら、栗城さんはSNSに殺されたように見える。今、SNSで誰でも有名になれる。多くのイイネをもらってインフルエンサーを目指してる人も多い。注目されるために。評価を貰い、有名になるために、どんどん過激な挑戦になっていく。とても怖いことに思えた。
死ぬ時に、命をかける場面で、今日は死ぬには持って来いの日だなぁ。と言えるかどうかは、僕の中でとても重要なことになりました。
最近の事-2019,1,14
-最近のこと-
キリマンジャロから帰ってきて、地元のキャンプ場ゲストハウスにお世話になってます。それまでは高校を出てからというもの、3か月以上は同じ場所に滞在したことがないような毎日を送ってきました。
16歳の時に初めてヒッチハイクで旅をして、伊豆半島の一番南まで行きました。もう楽しくてワクワクして仕方がなかったです。
その勢いのまま、心の向くままに、好奇心の行くほうに、毎日、前進してまいりました。毎日のように自分に問いかけて。今何がしたいのか、どこに行きたいのか。心に嘘をついていないか。今でも自分に問いかけます。
旅に出たあの日以来、どこまでも自由でした。人生は本当に自分次第だなぁ、と痛感させられる出来事も沢山ありました。どこに行っても何をしていても、そこにあるのは目の前の世界と自分だけ。世界に対して、この体を使って何を提供していくのか。
何が言いたいかと言うと、僕は旅して3年以上。ずっと移動し続けてきました。それは何かを積み上げているようで、何も積み上げていない感覚。自分には何が出来るだろう。と考えた時、自分に出来ることがあまりにも少なかった。自分よりずっと旅している人たちに会っても、いつしか憧れなくなっていた。
18歳の時、大学卒業の年の22歳まで、ずっと旅し続けた俺はどうなっているんだろう!ってワクワクしてたまらなかった。自由に世界中旅した俺にはどんな世界が見えているんだろう!どれだけデカい男になっているんだろう!って期待しまくっていた。
そして今22歳になった。僕は世界中を旅する旅人に憧れを感じなくなった。
当時の自分に言うことがあるとすれば、お前が憧れてたまらないその世界中を自由に旅する旅人、意外と簡単になれるよ。思っていたほどそんなにすごくないぜ。
旅するのは楽しいよ。旅は人生を凝縮させたような感じ。一日の中に入りきらないぐらいカラフルな物語が詰まってる。いろんな色が入ってきて、たまに一人にならないとパンクしてしまいそうになる。それが毎日続く。
1年先どこで何をしているのか。それどころか3か月先自分がどこにいるのかも分からない。そんな生活にちょっと疲れてきました。
そして僕は今、地元のキャンプ場ゲストハウスで働いて早1年と半月が経ちました。僕が住んでるあきる野市は、東京のふるさとと呼ばれるほど東京では珍しい自然が豊かな景色。僕の野生児ぶりを知る人はあきる野がどんな場所か想像が付くと思います。
僕は地元が大好きです。友達ともすぐ会えるし山も川もあるから楽しいです。ゲストハウスの仕事も楽しいです。旅をした人は一度は興味を持つのではないでしょうか。
最初は非日常としての感覚だった旅も、ずっと続けてたおかげで今でも旅をしている感覚で毎日を過ごせます。
そんな中で、僕は何か一つのことを極めた人に憧れるようになりました。同い年でも、一つのことだけをやってきた人は魅力的なモノを持っています。22歳なんてまだまだですが、それでも憧れるものがある。「これしかできないけど、これに関しては日本一」僕もいつかそうなりたいと思いました!
いつか、何かで日本一、世界一になってやるっていう気持ちは昔からあります。
何かを始めるのに遅すぎるということはないと思っています。今からでも、なにか、世界一を目指してみたい。
俺はいつか世界で活躍するデカい男になる。おバカですが、今でも思っています。
東京から大阪まで500㎞の歩き旅
第1話~始まり~
あれはたしかまだ肌寒い5月ぐらいのことだったと思う。日中は暖かいが夜は寒くて眠れない日があったのを覚えている。これは題名の通り、東京を出発して、大阪まで約500㎞の道のりを歩いた時の話である。ただのへなちょこな冒険記だが、当時10代の僕にとっては自分の殻を何枚も破った大きな旅だった。
16歳の時、たまたま見た旅の映画に触発されて、初めての歩き旅に出た。その時は地元あきる野から江の島まで70㎞の道のりだった。これがまた最高に楽しかった。当時の僕は"人ってこんなに歩けるんだ!"って思うぐらい感動していた。今じゃ歩いて日本一周どころか、人力車まで引いて世界一周している友達さえいる。
この旅から繋がって、17歳の真冬に千葉県鋸山まで、100㎞を歩いて登山をした。シンプルに自分の限界が知りたかった。ちなみにこの千葉の歩き旅を一緒に行った友達は帰宅後、病院で2週間のドクターストップを告げられた。「膝に爆弾を抱えちまった。」なんて笑っていた。
こんな旅を繰り返して、(俺の足はまだ歩けるようだ。)と思い、今回の大阪までの歩き旅を思いついた。もともと大阪には行く予定があんたんだが、普通に行っても面白くないので、なんなら歩こう!と思ったのがこの旅の始まりだ。
一人で歩くのは退屈だから誰かいないかと探していた。そこで地元の仲間が集まった時にこの旅の話をしてみた。「俺、参勤交代してくる。」
「あほだな~、何言ってんだよ。てか参勤交代って逆じゃね?」と、ほとんどの仲間が馬鹿にしてくる中、1人だけ「面白そう!」と言ってくれた。「よし。いきましょう!」
ということで大阪まで歩いての2人旅が始まることになった。
まあ当たり前のことだけど、旅の計画なんて一切ない。
道も知らず、いつ着くのか、いつ帰れるのか、というか無事にたどり着けるのか。もちろん寝るところも無い。何もかも分からない。
ただ、ワクワクしていた。そしておバカ2人は大阪まで歩いて向かうことになった。
理想の生活-夢は続く
(前回の記事)
この島は鹿が多いみたいだ。夜の暗闇の中、無数の足音に囲まれて目が覚めた。驚いて起き上がると鹿の群れが慌てて逃げて行った。食料の匂いに釣られて来たのか。毎日長い夜だった。
無人島生活最終日。特に変わりなく最終日まで来てしまった。毎日何かをしていたが、あっという間だった。自然のリズムはゆっくりのようで、振り返るととても速い。
無人島で過ごしている間、携帯も、時計もしなかった。太陽のリズムで生活していた。やはりこっちのリズムの方が健康にはよさそうだ。人工的な音は一切しなかった。自然は意外と賑やかだった。海は波を立てて常にうなってるし、森は風を浴びて葉を鳴らしている。
いつも聞こえてくる雨の音さえ違った。いつもの雨は家の屋根や地面に当たって固く弾き返る。でもここの雨は森や土や海の表面に吸収される。なんとも心地いい音だった。
たった4日間だけど、こんなに自分の顔を見なかったのも初めてだった。普段は毎日どこかしらで自分の顔を見る。この生活のなかでは自分の見た目の小さなことは気にしなくなっていた。
後、人は突然環境が変わると便が出なくなるらしい。俺も最初の3日間は便が出なかった。もしこうなっても病気ではないので気にしないように。
穏やかな無人島生活だったが、迎えの船が来る最終日、ものすごい雨に襲われた。船が岸に近づけず、沖で停滞していた。激しい波に煽られていた。なんとか近づいてきたが、接岸は出来ず。すると荷物を投げてと合図され、俺も慌てて船に荷物を投げ、激しく上下する船にタイミングを合わせて飛び乗った。タイミングを間違えば海にポンッなんてことも、。映画の撮影かな?と思うほどハードな最後だった。
「最後に洗礼受けたね」なんて言いホッとして笑った。
無事本土に着いた時、港にいた人たちが暖かいコーヒーやお菓子を出してくれた。和歌山県の優しい方々に救われました。ありがとうございました。
やはり自然の中で生きる事は気持ちがいい。俺の理想の生活スタイルだ。小学生の時から憧れていた無人島生活はこうして形になった。まだ体験したことがない事をもっと体験してみたい。この好奇心と自信は海外に向けて踏み出す一歩に繋がっていった。こうして無人島生活の夢は今も左手に残る思い出深いナイフ傷と共に一生消えない思い出となり完結した。
アクシデントは続くー無人島生活
-前回の記事-
手を怪我してからというもの、何をするにも気になって仕方がない。傷口が開いているのは菌が簡単に入って腫れてしまうから怖い。だが夢にまで見た無人島生活、憧れのマサルさんのように海に潜って食材を捕まえたい。ここまで来たんだから後悔の無いようにやるしかない。
僕は海に入ることにした。
痛む左手をかばいながらモリを片手に海に潜った。あいにく海無し県育ちなので、モリ突きは根っからの素人。だが潜水には自信があった。子供の頃からずっと川に潜って魚と遊んでた。だから10mほどは軽々と潜れた。どこまでも深い海には、川にはない怖さがあった。そして結果は、惨敗。
想像していたよりずっと難しかった。(魚って早いんだな。)改めてマサルさんのすごさを知った。素人がいきなり無人島で食材を手にするのは難しいようだ。作戦を変更して島の反対の岸で貝を獲ることにした。(笑)
海の透明度が高い。夢中になって食べられそうな貝を獲って、ひたすら潜っていた。そして気が付くと潮が満ちていて波が高くて岸を帰れなくなっていた。なので目の前の崖を登って拠点まで帰ることにした。
初めてのクライミング。
最初はなだらかな崖だったのでスイスイ登って行ったが、次第に角度がキツくなってきた。気が付くと降りる事も出来ないほど急な崖の真ん中に来てしまっていた。もう登るしかない。足を滑らせば海に落ちてしまう。満ちてきた海が下でうなっている。(落ちたら死ぬ、。)そんな恐怖さえ出てきた。しかも岩が脆くなってきた。掴む岩を間違えれば崩れて岩ごと落ちてしまいそうだ。
もう上の終わりが見えてきた頃、掴む岩がなくなり、亀裂から生えた枯れた木の根っこにぶら下がってしまった。この瞬間は生きた心地がしなかった。岩をつかんで力んだ時また左手の傷口が開いてしまって、いろいろ焦る出来事だった。
なんとか30mほどの崖を登りきり、拠点に戻れた。助かった。焚き火をして夕食の準備にかかる。魚はなかなか獲れないし、貝もそんなに豊富じゃない。沢山取れるといったらバッタぐらいなものだ。思っていたよりずっと難しい無人島生活だった。
若い時期は勢いがある。恐怖心もあるが、それよりもワクワク感の方が勝る。でもそれは本当の問題点が見えていないからだ。危険を知らないというリスクがある。勢いに身を任せすぎると命を落としかねない。好奇心は自分が進むべき方向を示してくれるが、恐怖心は失敗する可能性を教えてくれる。不安な心を無視して一歩を踏み出すのではなく、自分が感じる不安にもちゃんと目を向けて、最善の対策を準備して一歩踏み出すこと。遅くなってもいい。踏み出す速さは一番大切な事ではない。今、当時の自分を見るとそう思うのです。