大阪に向けて出発−長い旅の始まり
‐前回の記事‐
第2話 ~出発~
出発の朝。近所のスーパーに集合して、コーヒーで一息。思いつく荷物、テントを担いだら、二人ともバックはなかなかの重さになった。とりあえず南に向かって海に出て、そこからはひたすら西だな!とざっくりした作戦会議を済ませ、
「よし!行くか」と近所に買い物に行くかのようなノリで歩き出した。
「とりあえず今日の目標は神奈川県に入ること。暗くなる前に何とか寝れそうな場所を探してテントを張ろう。」
さすがに初日、2人で色んな会話をしながら「これから大阪まで歩くんですよ!」なんて通りすがりの人に自慢するほどの元気もあった。特にこれといった発見もなく、楽しく会話しながら歩いていると、あっという間に30㎞を突破。そして神奈川県に突入した。このぐらいの距離は慣れている。足の疲れはそれほどない。
夕方になりそろそろこの旅最初の寝床探し。テントの張れる公園を探した。結構大きめの広場を見つけたので、そこに入っていった。しばらく休憩してみたが、人通りが多い。それもそのはず、そこは沢山のマンションの中心にある広場だった。マンションにお住いの方が全員ここを通って帰っていく。これは寝づらい。でももー気持ちは完全に寝るモード。「朝早くに出発するので一晩だけお邪魔します。」と隅っこにテントを張った。
明らかに怪しい。「どうか通報しないで下さい。」と祈りながら初日の夜は過ごした。
ちょっとビクビクしていたが、付かれていたのかぐっすり眠っていた。
翌朝、目が覚めると7時を過ぎていた。もうサラリーマンたちはここを通って不思議そうに僕たちのテントを見つめながら出勤していったことだろう。
お邪魔しました。テントをささっと片づけてまた歩き出した。 続く。
命をかけるということ
僕は基本的にすぐ命がけになってしまう。趣味で始めたことで命がけじゃないとすれば釣りぐらいなものだ。スキューバダイビングもスカイダイビングも登山も。一定のレベルを越えてくると常に死と隣り合わせになってしまう。なんでも極めるということはそうゆうことなのか。
あるサーファーの友達から聞いた話。オーストラリアでサーフィンをしていた時、サーフィンの神様と呼ばれる人がいた。その人は誰も乗らないようなとても大きい波、ビッグウェーブに乗る。もちろんそれは死と隣り合わせ。一歩間違えば死ぬこともあるだろう。他のサーファーは皆、意を決して硬い表情でその波に挑む中、彼はボードを待って砂浜に立って、まるで子供のようにキラッキラした笑顔で、「今日は死ぬには持って来いの日だなぁ」と幸せそうに言い残して海に入っていくそうだ。
この話を聞いた時、何かすごく大切なことを教わった気がした。
僕の尊敬していた登山家の栗城史多さんは、エベレストで命を落とした。わからないが、もし栗城さんもエベレストを目の前にして、今日は死ぬには持って来いの日だ。と思えたことを願う。栗木さんは冒険の共有を死ぬ瞬間まで続けてくれた。全ての人が挑んでいる自分の壁を登る力を与え続けてくれた。そこに命を懸けることに納得していたなら、受け入れられます。でももしそこに命を懸けたいと思っていなかったなら、栗城さんはSNSに殺されたように見える。今、SNSで誰でも有名になれる。多くのイイネをもらってインフルエンサーを目指してる人も多い。注目されるために。評価を貰い、有名になるために、どんどん過激な挑戦になっていく。とても怖いことに思えた。
死ぬ時に、命をかける場面で、今日は死ぬには持って来いの日だなぁ。と言えるかどうかは、僕の中でとても重要なことになりました。
最近の事-2019,1,14
-最近のこと-
キリマンジャロから帰ってきて、地元のキャンプ場ゲストハウスにお世話になってます。それまでは高校を出てからというもの、3か月以上は同じ場所に滞在したことがないような毎日を送ってきました。
16歳の時に初めてヒッチハイクで旅をして、伊豆半島の一番南まで行きました。もう楽しくてワクワクして仕方がなかったです。
その勢いのまま、心の向くままに、好奇心の行くほうに、毎日、前進してまいりました。毎日のように自分に問いかけて。今何がしたいのか、どこに行きたいのか。心に嘘をついていないか。今でも自分に問いかけます。
旅に出たあの日以来、どこまでも自由でした。人生は本当に自分次第だなぁ、と痛感させられる出来事も沢山ありました。どこに行っても何をしていても、そこにあるのは目の前の世界と自分だけ。世界に対して、この体を使って何を提供していくのか。
何が言いたいかと言うと、僕は旅して3年以上。ずっと移動し続けてきました。それは何かを積み上げているようで、何も積み上げていない感覚。自分には何が出来るだろう。と考えた時、自分に出来ることがあまりにも少なかった。自分よりずっと旅している人たちに会っても、いつしか憧れなくなっていた。
18歳の時、大学卒業の年の22歳まで、ずっと旅し続けた俺はどうなっているんだろう!ってワクワクしてたまらなかった。自由に世界中旅した俺にはどんな世界が見えているんだろう!どれだけデカい男になっているんだろう!って期待しまくっていた。
そして今22歳になった。僕は世界中を旅する旅人に憧れを感じなくなった。
当時の自分に言うことがあるとすれば、お前が憧れてたまらないその世界中を自由に旅する旅人、意外と簡単になれるよ。思っていたほどそんなにすごくないぜ。
旅するのは楽しいよ。旅は人生を凝縮させたような感じ。一日の中に入りきらないぐらいカラフルな物語が詰まってる。いろんな色が入ってきて、たまに一人にならないとパンクしてしまいそうになる。それが毎日続く。
1年先どこで何をしているのか。それどころか3か月先自分がどこにいるのかも分からない。そんな生活にちょっと疲れてきました。
そして僕は今、地元のキャンプ場ゲストハウスで働いて早1年と半月が経ちました。僕が住んでるあきる野市は、東京のふるさとと呼ばれるほど東京では珍しい自然が豊かな景色。僕の野生児ぶりを知る人はあきる野がどんな場所か想像が付くと思います。
僕は地元が大好きです。友達ともすぐ会えるし山も川もあるから楽しいです。ゲストハウスの仕事も楽しいです。旅をした人は一度は興味を持つのではないでしょうか。
最初は非日常としての感覚だった旅も、ずっと続けてたおかげで今でも旅をしている感覚で毎日を過ごせます。
そんな中で、僕は何か一つのことを極めた人に憧れるようになりました。同い年でも、一つのことだけをやってきた人は魅力的なモノを持っています。22歳なんてまだまだですが、それでも憧れるものがある。「これしかできないけど、これに関しては日本一」僕もいつかそうなりたいと思いました!
いつか、何かで日本一、世界一になってやるっていう気持ちは昔からあります。
何かを始めるのに遅すぎるということはないと思っています。今からでも、なにか、世界一を目指してみたい。
俺はいつか世界で活躍するデカい男になる。おバカですが、今でも思っています。
東京から大阪まで500㎞の歩き旅
第1話~始まり~
あれはたしかまだ肌寒い5月ぐらいのことだったと思う。日中は暖かいが夜は寒くて眠れない日があったのを覚えている。これは題名の通り、東京を出発して、大阪まで約500㎞の道のりを歩いた時の話である。ただのへなちょこな冒険記だが、当時10代の僕にとっては自分の殻を何枚も破った大きな旅だった。
16歳の時、たまたま見た旅の映画に触発されて、初めての歩き旅に出た。その時は地元あきる野から江の島まで70㎞の道のりだった。これがまた最高に楽しかった。当時の僕は"人ってこんなに歩けるんだ!"って思うぐらい感動していた。今じゃ歩いて日本一周どころか、人力車まで引いて世界一周している友達さえいる。
この旅から繋がって、17歳の真冬に千葉県鋸山まで、100㎞を歩いて登山をした。シンプルに自分の限界が知りたかった。ちなみにこの千葉の歩き旅を一緒に行った友達は帰宅後、病院で2週間のドクターストップを告げられた。「膝に爆弾を抱えちまった。」なんて笑っていた。
こんな旅を繰り返して、(俺の足はまだ歩けるようだ。)と思い、今回の大阪までの歩き旅を思いついた。もともと大阪には行く予定があんたんだが、普通に行っても面白くないので、なんなら歩こう!と思ったのがこの旅の始まりだ。
一人で歩くのは退屈だから誰かいないかと探していた。そこで地元の仲間が集まった時にこの旅の話をしてみた。「俺、参勤交代してくる。」
「あほだな~、何言ってんだよ。てか参勤交代って逆じゃね?」と、ほとんどの仲間が馬鹿にしてくる中、1人だけ「面白そう!」と言ってくれた。「よし。いきましょう!」
ということで大阪まで歩いての2人旅が始まることになった。
まあ当たり前のことだけど、旅の計画なんて一切ない。
道も知らず、いつ着くのか、いつ帰れるのか、というか無事にたどり着けるのか。もちろん寝るところも無い。何もかも分からない。
ただ、ワクワクしていた。そしておバカ2人は大阪まで歩いて向かうことになった。
理想の生活-夢は続く
(前回の記事)
この島は鹿が多いみたいだ。夜の暗闇の中、無数の足音に囲まれて目が覚めた。驚いて起き上がると鹿の群れが慌てて逃げて行った。食料の匂いに釣られて来たのか。毎日長い夜だった。
無人島生活最終日。特に変わりなく最終日まで来てしまった。毎日何かをしていたが、あっという間だった。自然のリズムはゆっくりのようで、振り返るととても速い。
無人島で過ごしている間、携帯も、時計もしなかった。太陽のリズムで生活していた。やはりこっちのリズムの方が健康にはよさそうだ。人工的な音は一切しなかった。自然は意外と賑やかだった。海は波を立てて常にうなってるし、森は風を浴びて葉を鳴らしている。
いつも聞こえてくる雨の音さえ違った。いつもの雨は家の屋根や地面に当たって固く弾き返る。でもここの雨は森や土や海の表面に吸収される。なんとも心地いい音だった。
たった4日間だけど、こんなに自分の顔を見なかったのも初めてだった。普段は毎日どこかしらで自分の顔を見る。この生活のなかでは自分の見た目の小さなことは気にしなくなっていた。
後、人は突然環境が変わると便が出なくなるらしい。俺も最初の3日間は便が出なかった。もしこうなっても病気ではないので気にしないように。
穏やかな無人島生活だったが、迎えの船が来る最終日、ものすごい雨に襲われた。船が岸に近づけず、沖で停滞していた。激しい波に煽られていた。なんとか近づいてきたが、接岸は出来ず。すると荷物を投げてと合図され、俺も慌てて船に荷物を投げ、激しく上下する船にタイミングを合わせて飛び乗った。タイミングを間違えば海にポンッなんてことも、。映画の撮影かな?と思うほどハードな最後だった。
「最後に洗礼受けたね」なんて言いホッとして笑った。
無事本土に着いた時、港にいた人たちが暖かいコーヒーやお菓子を出してくれた。和歌山県の優しい方々に救われました。ありがとうございました。
やはり自然の中で生きる事は気持ちがいい。俺の理想の生活スタイルだ。小学生の時から憧れていた無人島生活はこうして形になった。まだ体験したことがない事をもっと体験してみたい。この好奇心と自信は海外に向けて踏み出す一歩に繋がっていった。こうして無人島生活の夢は今も左手に残る思い出深いナイフ傷と共に一生消えない思い出となり完結した。
アクシデントは続くー無人島生活
-前回の記事-
手を怪我してからというもの、何をするにも気になって仕方がない。傷口が開いているのは菌が簡単に入って腫れてしまうから怖い。だが夢にまで見た無人島生活、憧れのマサルさんのように海に潜って食材を捕まえたい。ここまで来たんだから後悔の無いようにやるしかない。
僕は海に入ることにした。
痛む左手をかばいながらモリを片手に海に潜った。あいにく海無し県育ちなので、モリ突きは根っからの素人。だが潜水には自信があった。子供の頃からずっと川に潜って魚と遊んでた。だから10mほどは軽々と潜れた。どこまでも深い海には、川にはない怖さがあった。そして結果は、惨敗。
想像していたよりずっと難しかった。(魚って早いんだな。)改めてマサルさんのすごさを知った。素人がいきなり無人島で食材を手にするのは難しいようだ。作戦を変更して島の反対の岸で貝を獲ることにした。(笑)
海の透明度が高い。夢中になって食べられそうな貝を獲って、ひたすら潜っていた。そして気が付くと潮が満ちていて波が高くて岸を帰れなくなっていた。なので目の前の崖を登って拠点まで帰ることにした。
初めてのクライミング。
最初はなだらかな崖だったのでスイスイ登って行ったが、次第に角度がキツくなってきた。気が付くと降りる事も出来ないほど急な崖の真ん中に来てしまっていた。もう登るしかない。足を滑らせば海に落ちてしまう。満ちてきた海が下でうなっている。(落ちたら死ぬ、。)そんな恐怖さえ出てきた。しかも岩が脆くなってきた。掴む岩を間違えれば崩れて岩ごと落ちてしまいそうだ。
もう上の終わりが見えてきた頃、掴む岩がなくなり、亀裂から生えた枯れた木の根っこにぶら下がってしまった。この瞬間は生きた心地がしなかった。岩をつかんで力んだ時また左手の傷口が開いてしまって、いろいろ焦る出来事だった。
なんとか30mほどの崖を登りきり、拠点に戻れた。助かった。焚き火をして夕食の準備にかかる。魚はなかなか獲れないし、貝もそんなに豊富じゃない。沢山取れるといったらバッタぐらいなものだ。思っていたよりずっと難しい無人島生活だった。
若い時期は勢いがある。恐怖心もあるが、それよりもワクワク感の方が勝る。でもそれは本当の問題点が見えていないからだ。危険を知らないというリスクがある。勢いに身を任せすぎると命を落としかねない。好奇心は自分が進むべき方向を示してくれるが、恐怖心は失敗する可能性を教えてくれる。不安な心を無視して一歩を踏み出すのではなく、自分が感じる不安にもちゃんと目を向けて、最善の対策を準備して一歩踏み出すこと。遅くなってもいい。踏み出す速さは一番大切な事ではない。今、当時の自分を見るとそう思うのです。
‐夢に見た無人島生活を決行‐
‐前回の記事‐
無人島生活決行の前夜、トッティーと一緒に装備の確認をした。自然豊かな土地で育った俺はアウトドアが大好きだった。友達とよく魚を捕まえては焚き火をして食べていた。
"子供の頃から夢に見ていた無人島生活"
俺はナイフ一本で上陸するつもりだった。だがアウトドアのプロフェッショナルでもあるトッティーが絶対に無理だという。俺より知識も技術も遥かに上だ。好奇心だけで何も知らない俺はとりあえず話を聞くことにした。
結局2人ともバックいっぱいに荷物を詰め込んだ。
決行の日がやってきた。まだ薄暗い街に出て、電車で京都から和歌山へ向かう。"出来るだけ早く島に入りたい"明るいうちに島の様子を見て生活の体制を整えたい。電車に揺られ、のどかな景色を眺めながら、頭は"無人島生活"でいっぱいだった。
9月の見事な秋晴れの中、最終駅について急いで船着場に向かった。
自分たちが乗るべき船を見つけて、"とうとう始まる"という気持ちに胸が高鳴った。
船着場に着き、島への滞在日数などの計画を係りの人に伝えた。
「気を付けてね。」と笑顔で送り出してもらい、ついに島へ向けて船が進みだした。
暑くも寒くもなく、心地よい天気だ。
船が次々と島を追い越していく。
"あの島か?あっちの島か?" 今か今かと上陸の瞬間を楽しみにしていた。
船がゆっくりになった。ついに来た。この島が今回お世話になる友ヶ島のようだ。島にはまだ沢山の観光客がいた。でもみんな今日の最終船で帰る。それから運行が再開する4日後までが無人島になる期間だ。なので一度上陸したら何があっても4日間は生き延びなければならなかった。そのサバイバル感が俺をワクワクさせていた。
島に上陸。まず開けた土地を見つけて荷物を置き、そこを拠点に島を周ることにした。
島のいたるところに歴史を感じる壊れかけの建造物がある。噂通り"ラピュタ"のような世界だ。
ここ友ヶ島は、第二次世界大戦まで旧日本軍により、外国艦隊が大阪湾に侵入するのを防ぐために使われていたと言われている。島のいたるところに砲台の跡があるのはそのせいだ。
人間が戦争のために作った建造物が植物に覆われて壊れ、砲台の土台が木の根によって真っ二つに割れている。それらを見ていると、植物たちが"戦争なんてやめろ"と訴えているように思えた。
海沿いに行くと崖に鎖が打ってあった。江戸時代から修行の場として使われていたそうだ。その鎖を使って断崖絶壁を上り下りして修行を行ったそうだ。
島を一周見て、拠点に戻った。とりあえず夜に備えて薪を集めよう。俺は慣れないナイフを使って木を切っていた。
なかなか木が固い。力を込めて木を真っ二つに!「オリャ!」
(グサッ!)、、、え。。。
勢いあまって、なんと左手にナイフが刺さってしまった。噴水のように血が噴き出してきた。あまりの驚きに"痛い"という感情が出てこなかった。
「やってしまった」(とりあえず落ち着いて、、止血しなければ。)
急いで傷口を圧迫し、心臓より高い位置にする。それでも脈を打つように出血するので、流れ着いていたテニスボールを脇に挟み、左腕の動脈を抑える。(いやーー、やってしまった。)
アウトドアの知識があるトッティーも、「ここまでの傷は手当てした事がない。」と言っていた。
「いい勉強になりますね。」と俺。驚きのあまり何かを悟ったかのように落ち着いていた。
なんと無人島生活、開始50分後の出来事である。もう船は出てしまったので帰れない。ここから4日間。過酷な無人島生活が始まった。というか自ら過酷にしてしまった。この島での生活。どうなることやら、。続く。
ちなみにこの写真は左手の傷を抑えながら、4日間どうしよう、と考えているところ。